翻訳者と話そう×本が好き! 翻訳家・和爾桃子さんイベントレポート~「遠いものを近く、近いものは遠く」丁寧に言葉を追いかける~


梅田 蔦屋書店で定期的に開催されている海外文学ファン向けトークイベント「翻訳者と話そう」。2018年3月3日に開催された和爾桃子さんのイベントレポートをお伝えします。司会は同店で洋書のコンシェルジュをされている河出真美さんです。

自分の守備範囲を固めないためのリーディング

河出 本日はよろしくお願いいたします。ではさっそくなんですけども。今回、会場にご用意させていただきました書籍の中でも、海外文学あり、SFあり、ファンタジーあり、ミステリーあり、といろいろ盛り沢山になっています。

和爾 ありがとうございます(笑)。

河出 お尋ねしたいのですが、例えばサキを翻訳されているときと、『ささやかで大きな嘘』を翻訳されているとき、頭の切り替えはどのようにしていらっしゃいますか。

和爾 それはですね。もう無理やり力技で切り替えるしかないです。今の翻訳者の仕事では、どうしても私たち自身が仕事を選ぶというよりも、基本来た仕事を引き受けるというのが、普通のパターンになっていると思うんですよね。たとえその間にどんな深刻な、苦悩するような海外文学をやっていようと、腸がねじれるくらい笑えるような、おバカなコメディが来たらそれを受けないといけない。それができなければプロ失格といいますか。失格にならなくても、自分の年収がガタ落ちする。だからそういう場合は力技ですね。なんとしても切り替える。なんとでもして、もうなんだったら冷水を浴びてもいいから切り替えて。強制終了させる感じです。

河出 実際にここにある本を読ませてもらっていただいて思ったんですけれども、例えばサキだと、ほんとうにショートショートの神様みたいな言われ方をしているとおり、短編集4冊で、ほぼひとつひとつのお話が10ページくらいの、10ページあったらちょっと長いかなとと思わせるくらいのごくごく短いお話が多いですよね。

和爾 そういう意味では、本が苦手な方とか、わりと長いものを読んでると飽きる、ダレるという方、そういう方にはサキは本当におすすめです。短くてすっきり笑えて、そのまま次に行けますから。

河出 それで読んでいて、考えていたのですが、『ささやかで大きな嘘』はそれとは正反対で上下巻ですよね。それを翻訳されているときって、例えばサキであれば共通の登場人物が出てきて、例えばクローヴィスがところどころ顔を出して、というようなのもあり、シリーズ的なものがあったり、ノンシリーズでどんどん登場人物が入れ替わっていくものがあったり。(それに対して)『ささやかで大きな嘘』は、限られた世界の限られた登場人物と上下巻ずっと付き合っていくということになりますよね。

和爾 そうですね。カットバック方式で、いろいろな登場人物のいろんな意見がちょいちょい挟まってきますけれど、基本は長編ですから、その辺はテンションがダレないようにしなければいけません。

河出 短いもの、ノンシリーズものを訳されるときと、上下巻ずっと同じ人物とテンションを途切れずにつきあっていくっていうのとは違いますか?

和爾 その辺、同業者の方は力いっぱいうなずいてくださると思うのですが、逆に同じものばっかりやっていると飽きるんです。だからそういう意味では違う傾向の作品がくると気分転換ですよね。「イエイ、カモン!」よくきてくださいましたというか、そういう感じです。そういうものがない場合は自分でリーディングと言いまして、まだ翻訳されてなさそうな、他の出版社が版権に手をかけていないような洋書を物色して回る仕事をします。それも翻訳者の仕事の重要なパーツのひとつではありますが、そういうところで意図して、ものすごくハチャメチャでバカな本を読みたいとか、ものすごく重苦しくて、内臓がどろどろ出るような歴史ものを読みたいとか、違うところに自分でもっていきます。
そうすることによって、自分の守備範囲を固まらずにある程度(ジャンルを)広げられるんです。これがまた、専門のものがなまじ売れている方は、専門ばかりやらされるので、だんだんだんだん守備が狭くなって、自分でも面白くなくなって力尽きて何年かお休みします、というケースがたまにあるみたいなんですけれど。それをやらないで長続きさせようと思ったら、いろんな違うものを、違うふうに読みながら(続けるしかない)。
結局この仕事をやっている人というのは、みんな本が好きなんですよ。たぶん、普通の人に混ざると突出して本を読んでいるだろうし、本が大好きだろうし、本がなかったらビタミンの一種で死ぬぞ、っていうくらい本が好きな人が多い。そういう「本が好き」っていう初心を忘れずにいられるアプローチの仕方っていうのが、長続きする工夫ではないでしょうか。

河出 では、意図的に例えばサキ(の翻訳)が入ったら、全然違うジャンルのもの(を読む)ということもなさっているんですか。

和爾 自分ではしてます。どうしても煮詰まってしまう場合は、五山文学というゴリゴリの漢文学であるとか、もともと私は漢文がバックグラウンドですから、そちらに行くとか、あとは脳がウニになるまでラテン語を読むとかそういうことをやってます。

河出 ラテン語…。

和爾 ラテン語とギリシャ語をずっとやっていたので。大学院生の方たちに教えたりもしていました。漢文は6歳から18歳まで、家庭の方針で個人教授がついて、古文と漢文をずっとやらされてたんです。昔、京大にいらっしゃった青木 正児(あおき まさる)という先生がおられまして。その先生に京都帝大の時代に教わった、熊本五高出身の先生が恩師です。言うだけで年齢がバレてしまいますが。

河出 となりますと、ギリシャ語、ラテン語、で漢文があって。そして英語という。

和爾 英語苦手です。どっちかというと(笑)。

河出 英語や日本語だけでなくて、複数の言葉に触れてきたということが、翻訳に影響を及ぼしていますか?

和爾 はっきり及ぼしてるでしょうね。というのが、引用なんかで古典語文というのはすごく多いんです。ラテン語がでてきたりとか、ギリシャ語がでてきたりですとか、ヘブライ語がでてきたりするとか。そういうのがでてくると、スキップする感じで、待ってました!と言えますから。普通だったらそういうのがでてきたら、編集さん何とかしてください、と投げる案件だと思うんですけど。問い合わせがくると私は喜んで人の仕事でもタダで訳しちゃってます。

河出 ラテン語となりますと、海外のインテリの方々がラテン語の引用したりとかそういう場面も結構ありますよね。

和爾 ありますね。正確にいうと戦前のインテリまでで断絶してますけど。私が大学に入った時点で、先生が最初の授業に登壇なさいまして、満面の笑顔でおっしゃいました。「ようこそいらっしゃいました、この仕事でお金を稼げることは絶対にありえません。日本における西洋古典学ははじまる前に終わっています」と。なんてところに来たんだろう、と思いましたね。でも、そうやって今、仕事に活かせているのはありがたいことです。

翻訳は、大きい穴でも、小さい穴であっても丁寧にかがらないといけない繕い物のよう

和爾 今回、本が好き!という書評サイトとコラボさせていただきまして、そこで和爾という翻訳者が登壇するから、レビュアーの方から疑問に思っていることをぶつけてみよう、という企画がありまして。

河出 はい。では、その寄せられた質問のなかから。今まで訳した作品のなかで最も苦労したものはどれですか?

和爾 全部です。

河出 また、一番の自信作は?

和爾 全部です(笑)。苦労をしない作品なんていうのは、まじめに取り組んでいる以上はありえませんよね。簡単なら簡単そうな作品なりに、また難しそうなら難しそうな作品なりに何かしら苦労はあるもので。それで思い出すのが、エリナー・ファージョンという児童文学者がいるんですけれども、その人が書いた童話に、『年とったばあやのお話かご』というのがありまして。すごくいい本なので、機会があればぜひ一度読んでいただきたいです。
その中でばあやが繕い物をしながら、何千年生きているのかわからないすごく怪しいばあやなんですけれども、子どもたちに自分が世界中で見てきたいろんな過去の思い出話をしてくれるっていう、ウソかほんとかわからない、半分ホラ話みたいな楽しい本です。その中でばあやが必ず靴下の繕い物をしながらお話をして、繕い物が終わったらお話も終わるのです。
そのばあやによると、繕い物のコツとして、大きいものは適当にある程度省略して、いい加減にというとあれですけど、おおざっぱに穴を埋めなければならないし、小さい穴であっても丁寧にかがらないといけないものもある。だから穴の大きい、小さいでお話の長い短いは決められないんだっていう。まさにそれと同じです。私のかがった靴下は数多くありませんけれども、どの靴下にもそれなりの苦労する穴はあったなと。ただどの子も苦労した分、わが子も同然の分身ですからどれもかわいいし、褒められればうれしいです。

河出 『ささやかで大きな嘘』を読んだときは、ちょうどサキ漬けになった後だったんですね。最初はサキの文体を読んで、現代ものになったらどんな風に訳されるのかなと思ったんですけども。ドラマの吹き替えの台本を読んでいるかのような、会話部分がすごく自然ですごく面白くて。本当にドラマになりました。

和爾 しかも、ゴールデングローブ賞とエミー賞を総ナメしたという、恐ろしい化けものになりました。リア―ン・モリアーティは、オーストラリアで今一番売れている作家なんですけど、まさにドラマ的な、そういう作風の人でして。私は向田邦子をすごくイメージしました。欧州の湊かなえという人もいるし、それもありだと思います。
この人を教えてくれたのが、『ZOO CITY』というSFものを書いたローレン・ビュークスという南アフリカの作家さんだったんです。オセアニアと南アフリカのサブサハラというんですけど、昔ブラックアフリカと呼ばれていた南のほうのアフリカですね。アフリカとオセアニアの人たちっていうのは、作家同士交流があって、両方でいろんな交流をして勉強会をしながら、英国へ売り込みに行こうとか、アメリカに殴り込みをかけようとか、ヨーロッパに行ってみようとか、いろいろやっていて。そういう流れの一端に触れられたのが、すごく面白かったです。
で、彼女に「モリアーティ読んでないの?絶対おすすめだから読んでみろ」とメールで薦められて、原作を読んでハマりまして。東京創元社に売り込みに行きました。


『ささやかで大きな嘘(上)』(東京創元社)


『ささやかで大きな嘘(下)』(東京創元社)

河出 モリアーティには作品がいくつかありますが、モリアーティの翻訳というのはこの本だけですよね。

和爾 はい、これだけです。私の訳で『夫の秘密』(2018年5月刊行予定)を同じく東京創元社から出させていただきます。そちらはもっとイヤミスです。超イヤミスです。結婚なさってる方だったら、あの主人公の夫婦のどっちかをぶん殴ってやりたくなるはずです(笑)。

河出 『ささやかで大きな嘘』のドラマ化のシーズン2もあるそうですね。

和爾 シーズン2はモリアーティが自身でプロデュースしています。主人公が3人いるんですけど、その3人のうちセレブ妻のセレストのお姑役さんにあのオスカー女優の・・・

河出 メリル・ストリープがテレビドラマに降臨するという!

和爾 そうなんです。向こうでは、グラミー賞とかオスカー女優が、テレビドラマの厳選されたムービーに出るというのは、そんなに珍しいことではなくて。

河出 ニコール・キッドマンも出てますよね。

和爾 このシリーズってオスカー女優を数えだしたらキリがないんですよ。ローラ・ダーンも賞を総ナメにしてますしね。『ランブリング・ローズ』とかね。

河出 『ワイルド・アット・ハート』とか。

和爾 河出さん、もしかして。すごくお若そうに見えますが、実は…?

(会場爆笑)

アンリ・バンコランシリーズの独特な世界観

河出 アンリ・バンコランシリーズについてお伺いしたいのですが、こちらは(和爾さんが)訳したい、というものだったのでしょうか?

和爾 これは持ち込みではなく、私としては珍しく依頼がかかったお仕事です。本好きな方で知っている方は知っていると思いますが、フリーランスでずっとコンスタントに本を売り続けていらっしゃる藤原編集室さんから打診がありました。どうして私に(依頼を)くださったのですか?というお話はいつも笑ってごまかされるので真の理由はわかりません。

河出 ディクスン・カーの中でも、アンリ・バンコランシリーズは独特な世界観ですよね。

和爾 そうですね。あくどいし、やりすぎるし、ほどほどというものを知らなかった時代ですね。これを書きた頃のジョン・ディクスン・カーは20代前半です。

河出 たしかデビュー作が『夜歩く』?

『夜歩く』(東京創元社)

和爾 そうです。新卒くらいの年齢で書いてますので、はっきり言って生意気ですよね。こういう学生作家がいたらちょっとなんだこの人、と思っちゃいますよね。

河出 ギデオン・フェル博士とかヘンリー・メリヴェール卿とかになるともうちょっとコメディ風であったりとか、探偵それ自体が、私のなかではサンタクロースっぽいおじさまというイメージなのですが、それとは違ってバンコランは魔王ですから。イケメンの魔王でございます、みなさま。

和爾 ジョン・ディクスン・カーの若い頃は、もともとかなりナルシスティックな傾向があった人で、実際よくモテたんですけど、若い頃っていうのはその傾向がひときわ強くて。おそらくバンコランと語り手のジェフ君とは、どちらも作者自身の投影だと思います。だから自分がなりたい理想形をバンコランにやらせ、まあまあってちょっと手綱をつける役を、より自分の等身大に近いジェフ君にやらせるという。で、ジェフ君を微妙に美化して自分のイケメンぶりをアピールしている。鼻持ちならないですね。

河出 そうですね。なんとなく、作家、というと非モテ系のほうがどちらかといえば多いかなというなかにあってそのナルシストぶりなんですね。

和爾 モテ系が書いたリア充系モテ系なんで、モテ系を全面に出しすぎてすごく嫌みなものだから、バンコランがイケメンだという話を私がいくら書いても、意図的に修正が入るんです。

河出 どこかに確かダンディっていう言葉もありましたよね。

和爾 ダンディというのは、首から下をおしゃれに装っていればダンディですからね。顔のつくりは別に関係ない。後になればなるほど、どんどん顔がただのひげおやじになっていくわけです。最後の5冊目で、もしそれをやられたら、物言いをつけようと思っているんですけど。

河出 『夜歩く』のイラストはなかなか素敵なおじさまです。

和爾 日本で第一版の『蝋人形館の殺人』、あれが一番イケメンに仕上がっています。


『蝋人形館の殺人』(東京創元社)

河出 5冊目の表紙はまだ出来上がってないんですよね。

和爾 まだですが、今年中にはおそらくリリースされると思います。それが最後の巻です。

河出 アンリ・バンコランシリーズって全部で5冊なんですね。他の探偵シリーズと比べると物足りない気持ちにもなります。

和爾 そうですね。やっぱり作者がどんどん大人になっていくにつれて、そういう中二病が抜けてくると、書き続けるのが辛くなったんでしょうね。“あまりにかっこいい私”をずっと演じていると、途中でハッと我に返ると超恥ずかしいじゃないですか。

河出 黒歴史になってしまう。

和爾 そういう的なこともあって、だれでも笑えるキャラに親しみやすく変換されていったんじゃないかなと。初期の黒歴史のもろもろも含めて、文体の変に凝ったところとか、ぼくちん知ってるんだぞ的なところも含めてわざと修正していません。あるがままの黒歴史です。

世界中の書店から作者が生きた時代の辞書を探しだす

河出 いままでの既刊のなかでおすすめというのはありますか?

和爾 ストーリー的に一番完成されているのは、一冊目の『蝋人形館の殺人』だと思いますが、『羅生門』的なあくどさっていう点では『夜歩く』ですかね。そもそも、「夜歩く」こと自体、「よるありく」と読ませたいくらい百鬼夜行的な要素満載です。冒頭の15世紀の擬古文は全く辞書を引かなくても書けます。15世紀といわれれば15世紀、16世紀といわれれば16世紀の、時代に合わせてそれっぽく古文を書き分けるのが特技のひとつなので。ただし、あまりに当時そのままにしてしまうと、中途半端にご存じで、かえって混乱する方が一定数出ます。そういった、むだに読書の流れを妨げそうな部分はわざと時代をずらした言葉に置き換えて、読みやすく加工をしています。

河出 藤原編集室さんがそういうところもご覧になって。

和爾 いや、知らなかったと思いますよ。たまに軽い気持ちで「ここどうでしょうか」と質問がくると、怒涛の勢いで「こういう用法があります」とか、辞書で間違ったことを書かれていたら、実際の用例をコピーしてつけたりして猛抗議するたちなので、かなり辟易されていると思います。
これを言いたかったんですけど、日本は辞書の精度が悪いです。外国語の辞書はもちろん、古語辞典、漢和辞書にこれはというのがなかなかなくて。漢和なら角川書店がお勧めです。古語であれば8割5分くらいまで精度があがってきましたけれど、日国(日本国語大辞典)でもたまに「おや?」というのがありますから。必ず用例・用法を実際の古語に即してあたられることをおすすめします。
「辞書ではこうですけど」というのは中級程度の方だったらよろしいんですけど、そればっかりで、辞書教信者になってしまうと、実際に言葉を使いこなせなくなると思うんです。なので辞書ではこうなっているけど、実際の用法はどうなっているだろう、それ以外の用法は存在するだろうかというのを常に念頭に置いて、なるべくたくさん実例に当たる。これも言葉屋としての仕事の一環だろうなとは思っています。
西洋古典語の辞書ですと、私はずっとオックスフォード版のリデル-スコットを使っています。そのほうが間違いがない。日本語の西洋古典語辞書はどうしても精度が落ちます。

河出 では、英語の辞書ではおすすめってありますか?

和爾 英語だと本に応じていろいろ使い分けているので、一概にどれとは言えませんが…。

河出 本によって使い分けてらっしゃるということは、サキを訳しているとき、モリアーティを訳しているときで…。

和爾 違いますよ、もちろん。例えばサキの場合でしたら、オックスフォードの英英辞書は絶対必要です。しかもサキの生きた時代のものを買ってきて使っています。でないと、現代の用法とまた微妙にずれてくるんです。現代の用法でサキを訳そうとすると、どこか作者の意図したものとずれてしまう可能性がありますので、必ずその作者が使った当時の言葉が載っているものを探してきて当たります。ジョン・ディクスン・カーも同じです。
これまでつきあった世界中のオンライン古書店のネットワークがありまして。そういうところから、情報が入ってくるんです。
ひとつご紹介すると、バンコランを訳した時の話ですね。というのも、パリっていうのはとにかく時代によって通りの名前がごろごろ変わるんですよ。通り自体が消滅してしまうこともよくありますし、10年くらいで街自体がなくなる場合もあるので。執筆時期の旅行者ガイドが一番信頼できる情報だったんですが、これがなくてね。ニューヨークの古書店から出てきた時に「15万円でどうですか」と言われたんです。そんな高いもの買えないから、さらにあきらめ悪く探していたら、イスタンブールの古書店から「うちあるけど、わりと状態いいけど、買わない? 5ドルでいいよ」と。それを当たっていなければ、どこに何の通りがあるのかすらわからないし、地図さえ書けない。

河出 おそらく当時でもどんどん新しくなっていくようなものでしょうし、だから数も少ないんでしょうね。

和爾 都市によってすごく変わる都市と変わらない都市があります。ロンドンは比較的変わらないけど、パリは変わります。パリは東京と同じかそれ以上変わっていると思います。

たった1語を追って15年。言葉に対する積み重ねが自信につながる

河出 では、サキを訳されているときにも、時代が違うということで苦労されたことはありますか。

和爾 サキで一番苦労したのは、この人がマルチリンガルでいろんな言葉を知ってて習ってて、実際に操れる語学の天才みたいな人だったので、文章に使っている言葉がそもそも何語なのかというのを掘っていくのが大変でした。『スレドニ・ヴァシュタール』という有名な短編がありますけど、その『スレドニ』がどこから来ているのかを調べるのに15年かかってますね。


「スレドニ・ヴァシュタール」が収録されている『クローヴィス物語』(白水社)

河出 訳者あとがきにも書いていらっしゃいますよね。

和爾 はい。最後は、主人の大学院時代の友人だったインドの人に教えてもらいました。あっさり片がついたのですが、それまではどう読んでいいのか、どう訳していいか、どう処理していいかさえわからなかったんです。後ろの「ヴァシュタール」というのは、古代ペルシア語からパフラヴィー語という中世ペルシア語で「輝くもの」という意味なんですけど、そこまでは旧約聖書をやっていたり、ヘブライ語をやっていたりしていたのであっさり見当はついたんですが、「スレドニ」はわからなかったです。

河出 その国の人にしかわからない。

和爾 いや、その国の人にもわからないらしくて。海外サイトを検索していただくとわかると思うんですけど、マニアの推理がいろいろ載っています。きっとブルガリア語に違いない、ルーマニア語だろう、とかロシアの方言に違いない、とか、無根拠に好き放題です。こんなのは、調べたところで訳者の自己満足にすぎないものですけど、その積み重ねが自分の仕事に対する自信を生むので、どうしてもなおざりにはできないというか。
(わからない言葉について)編集さん任せにする方も多いと思うんですけど、そこだけは自分でやったほうがいいです、絶対。のちのち自分の財産になりますから。足で稼いだこと、自分が汗をかいたこと、苦しんだことは絶対忘れませんから。それがある日ある時、突拍子もないところからぽっと出てきます。そうして次の仕事につながったり、思いもかけないブレイクスルーを作ったりします。

河出 やはり自分で納得できるまで、調べるということなんですね。

和爾 翻訳をやっていくうえでは絶対に強みになると思います。

「共感」というタグによって、作品と読者をつなぐ

河出 逆に『ささやかで大きな嘘』は現代ではありますが、オーストラリアの話であり、セレブっぽい家庭があったり、シングルマザーであったり、いろんな家庭環境がありますよね。あのあたりも翻訳されるうえで苦労はありましたか?

和爾 ドラマチックな部分はお国柄もあるかと思いますが、むしろ日本にもありそうな話だと思われませんか?

河出 園ママの間のどろどろであったり、こんな事件が起こったら、というのはありますよね。家庭の夫婦間の問題でも、そんな状況に陥ったことはないんですが、「わかる!」っていう

和爾 ママ友同士のマウンティングのし合いとか、そのマウンティングの過程で子どものいじめ問題がこじれたりとか。あと夫婦の問題が子どもに影を落としていじめになったりとか、わりと日本でもありそうな話じゃないですか

河出 どろどろ系の昼ドラに訳し換えられそうですね。

和爾 実際そうやってキャスティングされていた読者レビューもみかけました。一番男前なママは天海祐希でやってほしいとか。

河出 わかります。訳者あとがきで、作者がニコール・キッドマンを想定して書いた、とありましたね。

和爾 評論家の方でも、ママは絶対にこの人だ、と雑誌のレビューで書いていたのもありましたし、いろいろですね。そういういろんな読み方ができるのが、力のある作品の証拠だと思います。今おっしゃった、外国のことと身近なこと、という問題も実はひとつありまして。なんでもそうですけど、私は“遠いものを近く、近いものは遠く”というのをポリシーにして訳しています。というのは、遠い出来事、遠い時代を「遠いことですね」と言って、ただ遠いものとして日本語にしたら、「ああ遠かったね」で終わりなんです。そこにはなんの共感も生まないし、なんの感情も動かない。
遠いものの中から、ひとつ近いものを見つけて、自分たちと共通のタグ付けをできれば、そこから理解が進むわけですね。遠い時代であればあるほど、そういうタグ付けは、絶対に人に読ませる要素として必要だなと思います。逆に近い時代っていうのは、「ああ、近い時代でわかってるわかってる」と、みんなわかってることを錯覚しがちなんです。だからこそ、違いを際立たせる。きちんと区切りを立たせる。事件の輪郭の際を立てる。それが大事なことです。わかったつもり、というのが一番怖いんです。
何を読むにしても共通の姿勢だと思っていただいて間違いないと思います。例えば六法全書を渡されて、「さあこれを全部読んでみようじゃないの」と言われても、普通の人だったら、その場でポンと投げて終わりだと思うんですよ。その中にどろどろの遺産問題があったり、泥沼の不動産問題でお隣とトラブってて、とかタグがあれば、どんなに歯が立たないものでも、とりあえず読もうかとなるんです。それと同じことです。本というのはそうやって読むものであって、エンタメであろうと、実用書であろうと、基本は同じだと思います。共感を呼ばなければ本じゃないです。嫌悪でもいいですが、無関係な遠いできごとで終わらせてはだめです。

河出 『ささやかで大きな嘘』は自分の生活環境と全然違うものにも拘わらず、3人のメインのキャラクターにどっぷり感情移入してしまいました。2日で上下巻を読みました。すごく楽しかったです!

和爾 最高の誉め言葉です。読んでいただければ絶対楽しいと思うんですけれど、なぜかみなさんオーストラリアの話っていうだけで後ずさって読んでくださらないので(笑)。

河出 最初は(作者が)オーストラリアの方だと知らなくて。アメリカの方だと勘違いして、アメリカの話だと思って読んでいました。

和爾 まさにどこの国でも起こりうることなんです。テレビドラマはアメリカの西海岸に舞台を置き換えてあります。Huluでエピソード1を全話見られるのでぜひ見てください。

質疑応答コーナーより

会場にいらっしゃったみなさんからの質問から一部をお届けします。

Q サキの本を読ませていただいて、書簡とか今まで翻訳されていなかったものがあったんですけど、そういうものを訳されるときに、サキの人物像というか作家像を全部探るんですか?

和爾 実をいうと、その書簡集をオックスフォードから掘り出したのも、これまた10年以上追いかけた結果です。テキサス大のロバート・ドレイクさんという、サキのお姉さんに生前会ったことのあるアメリカの研究者がいて、サキ研究の第一人者なんですが、その人の論文がなかなか手に入らなかったんです。それをどこまでも追って行くうちに、サキ自身や親族の直筆書簡がオックスフォードに所蔵されているというのをつきとめたわけですが、そう判明したのが、オックスフォードが一般公開のためにホームページに載せた当日だったんです。
そこで日本で紹介させてほしいとお願いしたところ、商業出版ということにものすごく難色を示されました。学術論文に載せるためだったらいくらでも許可をあげるけど、商業誌はだめだと。そこで学術誌の主宰者である横山學先生という存じ寄りの方にご連絡したところ、「うちは今号で廃刊だけど、あと一日だけ待つから、間に合うよう入稿してくれたら掲載してあげるよ」と言われまして。その学術誌から引用する形なら商業出版に掲載可能だったわけです。
それで一日、正味半日で、資料の対象も本人とその家族だけの第一次資料に絞って訳しました。私事ですが、その交渉の最中に闘病中で手術を予定していました。でも今そこで手を離しちゃったら、次いつオックスフォードが応じてくれるかわからない、これを逃したらもう日本では全文を読めないと思ったんです。
部分的な引用はそれまでにも何度かありましたが、全文訳はなかったので。一般の方に全文訳で読んでいただいて裾野を広げ、後世にもっとサキの研究を続けてほしい、と手術を1ケ月伸ばしてもらって取り組みました。幸い本も出版され、私も生きておりますが、そうした背景があったので読んでいただけてほんとうに嬉しいです。


サキの書簡が収録されている『平和の玩具』(白水社)

今までサキはゲイであるとか、作風から誤解されていることが多くて、実際の本人の肉声に基づいた研究が全然されていなくて、全部憶測だったんです。本当のサキはどういう人なのか、いったいどういう背景でこういった作品を書いたのか、一度徹底的に調べつくしておきたいなと。
大幅に刊行時期も遅れてしまいましたが、出版社である白水社と藤原編集室さんの協力で実現できました。そういうところで、理解のある出版社、見る目のある編集さんに付き合ってもらえていることが実にありがたいです。

Q 言葉遣いを時代に合わせる、というお話がありましたが、カーを読んで、時代劇が好きなので、作品中にでてくる「獲物」や「下手人」という言葉の使い方について、大変共感しました。言葉の使い方について、出版社からの設定指示のようなものはあるのでしょうか?

和爾 あまりにも、というのは修正が入りますが、校正の段階でお互いに調整を重ねていきます。最初の原稿は判読できないほど多く修正が入ったりします。それをそのまま受け入れるのではなく、ひとひねりふたひねりして、より洗練された表現で返す、といった殺気だったキャッチボールを何度か繰り返すことで、(言葉が)決まります。そこで引っかからなかった言葉は採用になります。
ちょうどあの時代は山田風太郎の手掛けた明治ものと同じくらいの時代背景です。あれに準拠して、グラン・ギニョール風にどぎついめに、あくどく、というのが日本におけるバンコランものの標準仕様としてはふさわしいのではないかと、決めています。
また、バンコラン物にあえてレトロな訳語を当てた理由に、バンコランという人が当時としては時代錯誤な行動規範の持ち主だから、というのもあります。
当時の予審判事に市中見回りの職務などありません。そうやって「自分の街を守る顔役」していたのは、せいぜいアンシャンレジームの時代まで。大革命までの予審判事は治安維持ばかりか夫婦不和の仲裁まで職務に含まれており、庶民が持ち込む相談に実にきめ細かく対応していたそうです。それゆえか、大革命では市民暴動のさいにリンチに遭って命を落とした人も多い。
バンコラン自身の貴族的気質、それに市中見回りを欠かさないという態度は、たとえていえば明治以降の予審判事や大警視が心ひそかに遠山の金さんとしてふるまっていた、というようなものだとお考えください。さらっと書かれていますが、毎日欠かさずというのは大変なことです。
作者がそう書いている以上、できれば触れておきたいところ。かといって説明口調は避けたい。となると、訳語を前時代的にずらすのがいちばん妥当な線でした。わかる人だけわかってくださいという措置ですが、目ざとく気づいた読者の方が意外に多かったのは嬉しい驚きでした。


和爾さんによるサキシリーズの広告。『ねこ新聞』用に作成され、全体が猫のかたちになっている

イベント参加者のコメント

イベントに参加された方の感想や、印象に残ったことなどをご紹介します。

・翻訳について様々なことをお聞きできてよかったです。
・全体的に、本や文学、お仕事への執念とも思える思いの強さ、深さを感じました。とても面白い楽しい時間でした。例えば、調べもの、文体、本の扱い方などについてです。
・和爾先生の博識に感嘆しました。先生も最初は出版まで苦労なさったときいて、励みになりました。
・書籍作法の基本を知って良かったです。
・その原作が書かれた時代背景に合わせた訳を心がける。14世紀か15世紀のか…という100年の違いもあきらかに。
・翻訳するのに関連する書簡を手に入れるための労力をお伺いし、その熱意に驚くばかりです。
・いろいろなお話をきけて、さらに作品に興味がわきました。
・とても興味深いお話を、楽しくきかせていただきました。おみやげもありがとうございました。
・翻訳を勉強中の身としては参考になるというかレベルの違いにため息の出る時間でした。でも大きな刺激となりました。がんばりたいです。
・幅広い話題と語り口がすばらしい。
・『ささやかで大きな嘘』を読んでいこうと思いました。面白そうなので。
・本日は、貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございました。
・とても楽しいイベントをありがとうございました。
・翻訳家を定期的に招いていただきたい。


イベントに華を添えた東京創元社の公式キャラクター・くらり

構成:本が好き!編集部 東郷
写真提供:梅田 蔦屋書店

フォローする