参加者の方からの質問続々 〜浅生鴨『伴走者』・小野美由紀『メゾン刻の湯』出版記念トークイベント・レポート その5〜

浅生鴨さんと小野美由紀さんの出版記念トークイベントまとめ記事ですが、ついに最終回です。

今回は参加者の皆さんからの質問コーナーです。小説の書き方からコミュニケーションの方法まで幅広い質問が出てきました。

『伴走者』『メゾン刻の湯』ともに、献本プレゼントをさせていただいた作品なのでお読みになっている方も多いかとは思いますが、未読の方はぜひ両作を読んでからの方が楽しめると思います! 最高に面白い本です!

参加者の方からの質問も続々

浅生 何か質問があれば。

Q1 多様性って聞いた時にすごい僕が最近感じてるのは。多様性ってみんな言う割に、結局都合のいいもの以外を排除するような感じがしているんです。というのは、大学を卒業した時にしばらく無職だったと小野さんはおっしゃいましたけど、それを聞いたときに僕と同じ人がいたんだって思ったんですね。大学行っても内定を取らずに無職のまま社会に放り出される人がいるんだって思って。ちなみに僕は今でも無職なんですけど。

こういう多様性がテーマのイベントにふらふら行った時に「ここなら無職っていう立場を活かして話ができるじゃん」って思って行ってみたら、参加していた人たちからすごい怪訝な顔されたんですね。

「や、もう許せない。いったいこいつをどうやって社会に参加させようか」みたいな。みんなでそんな話になっちゃって、そうか、多様性の中に俺、いないんだってすごい感じたんです。

小野さんはご自身が無職だった時期、社会の中に自分、含まれてるなとか、居場所あるなとか、多様性の中にちゃんと自分がいる感じはしました?

小野 質問者さんが感じられていた憤りというか不快感というのは、多様性が大事って言われているにもかかわらず、職業とか働いてるかどうかで結局判断されてしまうっていう辛さを感じるからで。結局、多様性が社会の中に行き渡っていないなっていう憤りを感じられてるって事ですか。

Q1 多様性が大事って言っている場で、俺のことは排除するのか、何だよ多様性って、というか。

小野 そっか。その無職であることで排除されているってご自身が感じられて、それが辛かったってことですか。

Q1 そうですね。人権がないみたいな。

浅生 それはたぶん、行く場所が違ったんだと思う。多分、多様性のこととかちゃんと話す人たちの場じゃないんだと思うよ。多様性にかこつけて自分たちの言いたいことを言う場にうっかり行っちゃったんだと思う。

本当に多様性とかっていちいち言わないまま多様性について分かってるというか、感覚的に受け入れている人達って、職があるとかないとかそういうのどうでもいいからね。だから職があるとかないとかで、気にする人たちの場は違うんだって思う。行かなくていいよそんなところ。疲れるし。面倒くさいから。

僕なんて大学、途中で除籍だからね。全然行かなくて学費払わなかったらある日、友達から「おまえ除籍になってるぞ」って言われて、で見に行ったら掲示板に除籍にするって書かれていて「あ、除籍だー」って思って。

でもそんなんでも生きていけるから大丈夫です。

Q1 じゃあ、無職のままふらふらしていても大丈夫ですか?

浅生 何か今やりたいとかっていうことあるの?

Q1 家に引きこもって絵を描いているのが一番ですね。

浅生 絵を書きたいんだったらすっと書いてれば? 本当に突き詰めるところまで絵を描けるんだったらそんなに幸せなことはないと思うんだよね。本当に、もうこれ以上描けないっていうくらい描いてみるのはありかも。少なくともやった感はあると思う。やった感を自分で獲得するのはいい気がします。とにかくそんな場は行かなくていいです。

Q1 ありがとうございます。

小野 あの質問なんですけど、ご自身はその場にいる方々とどういう関わり方をしたかったんですか?

Q1 例えば企業でちゃんと働いてる人とか、身分がちゃんとしっかりした人達がいっぱいいたんです。うまく言えないんですけど、ただ、この人たちとは確かに職業として働いている働いていないっていうところでは僕は断絶してるんですけれども、それでもやっぱり100人いたら100通りの社会の見方とか物事の見方ってあるわけじゃないですか。

この企業で働いてる人の見方、この分野で働いてる人の見方、みたいなことで、じゃあ無職の僕から見た社会の見方みたいな風に思って欲しかったんであって。要するに経験、これもひとつの経験っていう風にみなして欲しかったんですけど。もうここで無職って書く人間はイコール経験がないっていうことにされた。無職は無職なりに色々あるんだけどなぁとなんか釈然としないなっていう気持ちになったんですけど。そんな感じで大丈夫ですかね?

浅生 話を聞いてほしかった?

Q1 そうそう。僕の意見も「なるほど無職っていうのはこういう風に考えるんだ」っていう風にみんなに思って欲しかった。だってなかなか無いじゃないですか、無職の人間と会う機会って。

小野 いっぱいありますよ。無職の人なんていまいっぱいあふれているけど。つまり、その無職として自分が経験している経験をその人たちに聞いて、認めて欲しかったんですよね。

Q1 無職は無職なりに社会の一部としてちょっと認めて欲しかったということはあります。

小野 認めてほしかったんだ、そうか。その無職の立場を認めて欲しかったんだ。

Q1 そうそう。

小野 立場に囚われてるうちはそうなりますよね。立場で話したら立場で応戦されるに決まってるじゃん。私は無職だからどうだったかなんてあまり思ったことはないですね。

Q1 つまり、お前こそその役割で見でるじゃないか、ということでしょうか?

小野 そう思いました。

Q1 結構前向きではあったんですけど、確かにそうだったかもしれない。もうちょっとパーソナルな部分でやんなきゃっていう。良く分からないですけど、ぼくにも偏見があったかなって若干反省しました。ありがとうございます。

小野 他に質問ある方いらっしゃいますか?

Q2 先ほどのお話の中で、悪意とか狡猾さが浮かぶことがあるとおっしゃっていましたけれども、小説家って自分の世界を文章にするわけじゃないですか。ですから他者の中の多様性ではなくて、自分の中の多様性というものも多分我々よりも見る機会があると思うんですよね。

自分自身の中に複数ある多様性っていうものを感じ取る瞬間ってのは、世界を描き切るときに浮かんでくるものなんですか?

浅生 すごい難しい質問だなあ。想像です、やっぱり。自分とは違う立場の人とか、自分とはまるで環境の違う人達というのは自分の中では分かり切れない。自分の中にそれがあるわけではないので。それは本当にどこまで想像できるか、だと思いますね。もちろん、自分の中に、いろんな思いとかいろんな感覚というのはあるんですけども。それが他人の感覚かっていうとそれはちょっと違うので。これが他人の感覚だとしたらどうだろう?ってことをずっと考え続けるんだと思います。

答えあってます?

Q2 自分の心の中に自分以外の自分というものを感じる瞬間というのが出てくるのかなと。

浅生 それは、毎日、しょっちゅうですね。こうありたい自分というのはあるんだけど、普段はそうじゃない自分ばかりなので。分裂とまでは言わないにしても自分の中でいろんな人格がいろんな場面で出てきます。つまりここで喋っているぼくと、さっきまでそこでスタッフと喋ってる僕とでは既に人格が違うわけですから。そこは常に意識はしていますよね。で、それを記憶するようにしています。自分がどれだけダメだったかとか良かったとかを。

Q2 そういうのって物語を作る中で活きているものなんですかね。

浅生 どうなんだろう。僕は本当に書くときは、自分の中の小説世界に入っていって見えているものを書いているだけなので。たぶん役に立っているとは思うんですけども、100%そうだとは言い切れないですね。

小野さんはどうですか? 書くときには割と意識的にキャラを動かす?

小野 今回の小説に関しては、テーマありきだったので意識的に動かしたんですけど。登場人物って「私」と「社会的なモチーフ」のキメラだと思って動かしていて。例えば、義足の龍くんが銭湯の中で語り合っているときに、

”それに俺、人に好かれやすいんだ。ほら、俺さ、足ないじゃん。みんな、自分より”下”、だと思うとさ、安心して話すでしょ”

っていうセリフを言わせたんですよ。でもそれは、取材の中から出てきたんじゃなくて、あのシーンを書いているときになぜだかホロッと自分の中で生まれてきて。誰かが書かせたんですよね、それを私に。でも、それが誰なのかが分からないんですよ。

同じように「下に見られたほうが好かれる」って思っている自分が人生の中でどこかにいたのかもしれないし、人生経験の中でそういうふうに感じてるんだなと思う人を見たのかもしれないです。でも、それがどこから出てきたかはわからないんですよね。自分の中のこの辺(お腹のあたり)にあるものの中から。ちょっと分からないんですけどなんかそういう感じで書いてます。

Q2 分かりました。ありがとうございます。

Q3 今日は貴重なお話どうもありがとうございました。小野さんと浅生さんにお聞きしたいんですけれども、コミュニケーションをどういう風に取ってるかっていうところで質問させてください。

今日のテーマの多様性って、予告を見た時にすごい難しいテーマだなと思いながら、今日は楽しみにしてきました。いまパワーワードのひとつだと思うんですよね。そういう多様性とかダイバーシティーインクルージョンとかっていう風な、そういうものをみんなが普通に考えたときって真面目に頭で考える人ほどどんどん知識としてインプットして、いざそういう人を目の前にした時に、どういう風にコミュニケーションをとるのが正解なんだろうみたいに考えたりとかしちゃうと思うんです。

しかも、そう考えるが故に当事者にとってはすごくよそよそしいコミュニケーションになっていたり。それがちょっと腫れ物に触るような雰囲気みたいなものを出してるっていうのがあるのではないのかなという風に考えているんですね。

お二人が創作活動であったりだとか、普段のコミュニケーションで何らかのマイノリティ性を抱えている方にお会いする時に、どういう風にコミュニケーションをとって相手と向き合っているのかなってことをお聞きしたいです。

小野 取材のときにってことですか?

Q3 取材でもいいですし。ご友人とか周囲の方とかでも。ご自身がどういう風に気をつけているというか、意識されているのかなと思って。

浅生 別に何も気をつけてないですよ。気を付けないといけないですか?

Q3 気を付けない、というのもひとつのコミュニケーションなのかなっていう風に思っています。

浅生 別府っていうすごい素敵な街があって。別府っていうのは実はとんでもないバリアフルな街なんです。車椅子で生活している人が多いんですね。ところが、ここは入り口にスロープがありますが、別府の町にはまったくスロープなんかないんです。車椅子で店に行くと、店の奥からなんやかんやと人が出てきて、せーのでみんなで入れちゃうっていう。

そこで取材したときに店の人に、「この街は車椅子の人が多いですけど町の人はすごく普通に自然に助けるというかサポートする感じですよね。そういうのを見てどう思いますか?」って聞いたら「何か思わなきゃいけないんですか?」って言われたんです。つまり、あまりにも自然でフラットだからいちいち何か考えていないっていう。そう考えたときに、僕もとりわけ考えていないなっていうか。気になることがあれば聞くし。

例えば、初めて会った車椅子の人に、「あ、それかっこいい車だな」と思ったら「どこのですか?」って聞くこともあるし。「電動ですか?」とか。割と普通に友達とか新しく会った人とかに「そのカバン、どこのですか?」って聞くのと変わらない。だから、あんまり考えていないですね。

で、深いことを聞くときは、「こういうこと聞きたいんだけど嫌だったら言ってね」って普通に。逆に変にこっちが気を使うと伝わるから。ちゃんと言うっていうか。それだけだと思う。

小野 たぶん私も浅生さんももう取材とかで慣れちゃってるんですよねそういうのに。

質問者の彼は友人なんですけど。何が聞きたいのかって想像したら、最近、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)とかすごい言われて、そういう人たちに対する表現への配慮だっりというのにすごく社会的に過敏になっていたりするんですね。

あと、あんまり自分と違う存在の人と接したことが、あまりない状態の人が多かったり。それに、自分もマイノリティでだけれど他のマイノリティの人とどういう風に接したら良いのかわからないみたいな悩みがある人も多分たくさんいると思っていて。

そういう時にどうしたらいいのかなっていうことを聞きたいのかなと思ったんですけど、違う?

Q3 概ね合っています。

小野 私も多分、最初は偏見って持ってたと思うんですよ、この小説書くときに。例えば、さっき名前を出した野田さんに最初の取材の時に「義足で困ったこととか差別されたこととかつらかったこととかありますか?」みたいな質問をしたときに「特にないっす」みたいな。

今だったらまあそう言うだろうなって思うんだけど、マイノリティの方々はすごい苦労して乗り越えた人みたいなバイアスを持ってたなっていう風に取材していて気づかされましたし。浅生さんも荷物持とうとしたら怒られたみたいなこと言ってましたよね。

浅生 視覚障害者の方とスキーに行って、その方の荷物を持とうとしたら「私は目が悪いだけで荷物は自分で持てます!」ってすごい怒られました。僕は彼女が小さくて細いので、僕がゴツイから荷物持つって言っただけなんですけど。でも、彼女がそこでそう言ったってことは日ごろからそういう風に目が悪いだけで視覚以外のことも色々とできないと思われているんだなって感じたかな。

割と僕はフラットです。自分自身が障害者なので。それも含めてあんま変わらないよなっていうかな。野田さんと最初会ったときも割と雑なことしているかなって。うなずかないでよ、丁寧って言ってよ(笑)

割と根が雑なので、そういう意味では雑なコミュニケーションをしています。

小野 でも、どうだろうな。やっぱり気は使っちゃうかも。自分なりに。必要以上に使っちゃうことはなくならないって思うんだけど、仕方ないなってそこですり合わせていく必要があるなって思う。

最近気になっていることで、友達がLGBT関連のイベント、レズビアンを公表したバレーボール選手の方ともう1人の方を読んでトークイベントをしたときに、バレーボール選手の方の言葉をコントロールするのにすごく苦労したんだよねって聞いたことがあります。

レズビアンのバレーボール選手の方はポリコレに関して何の知識もなくて、レズビアンであることを公表したけどもずっとバレーボールをやってきたから語り方を知らない。例えば、イベントとかでレズって呼んじゃいけない、レズビアンを表現するときはレズビアンって言わなきゃいけないっていうのも彼女は当事者だけど知らなくて。そうしないと他の当事者から「レズって呼ばれたくない」とかって批判が来るみたいなこととか。だから、彼女の言葉をコントロールするのにすごく苦労したんだよねって、友達が言っていて。

でも、彼女が自分のことをレズって呼んだりするのは彼女の自由なわけで。そういう語り方の正解を探すゲームみたいなのが、今すごくマイノリティ同士の中でもあって、それって苦しいなって思ったんですよね。そのイベントのトークの記事とかも、すごい細かく配慮して、誰も傷つけないように配慮して作られたらしいんだけど。

でも、言葉一つの解釈でも人それぞれじゃないですか。それを一つの世界に収束しないと攻撃されちゃうって、自分が人を傷つけてるかもしれないし、人が自分を傷つけるかもしれないって思っちゃうっていうのは、それってあまりハッピーな感じゃないなっていう風に思って。

自分が他人と感じ方が違っていても、それを大事にしないと相手が自分と違うっていうことも大事にできないんじゃないかって凄く思うから。そういうことを発信していく人や作り手の人は、摩擦は起きると思うんですけど、自分の感覚を信じて萎縮しないっていうのもひとつ、重要なことなのかなって思いました。全然関係ない話だね。

浅生 結局、ほぼ8時半までお付き合いいただきまして、あの、面白かったですか? 大丈夫ですか? 良かった。ありがとうございます。

なかなか人前で話すということをほとんどやらないのでこういう機会がたまにあるとめっちゃ緊張するので。

小野 緊張していたんですか?

浅生 すごい緊張していました。

小野 見えなかったです(笑)

浅生 見た目だけごまかすのは上手なんですけど中は今大変なことになっています(笑)
そんな感じでトークイベントは終わります。ありがとうございました。

小野 ありがとうございました。

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